三種の神器を冠する神社を参った四日目

緊急事態宣言の出ているGWも後半に突入だ。今日の午前中をフルに使って三箇所の神社をお参りしてきた。最初の剣の神社以外は密の心配は無さそうなところだ、と、言い切るのは失礼か。
摂社末社もお参りし、剣から玉の神社に移動した頃には日も高くなって来た。
朝でもないのに気前よく鳴いてくれる鷄とハートの飛び出た楠も含め、趣のある社だった。
そして、目的の最後は鏡の神社。
思ったより規模が大きく立派な本殿に驚いた。

いつもは御祭神を調べてからのお参りだけど、今回は狭い範囲ながら、三種の神器を名に含む神社の三景を拝んで来た。

八咫の鏡も八尺瓊勾玉も草薙の剣も見る事は叶わないけれど、神社を三拝して、少し正しくなれたら良いなと思った今日だった。

ウチの神棚にないもの

さて、神社は大きく三つに分類できるらしく、ひとつは皇祖神として別格の伊勢神宮。二つめは住んでる地域の神様である氏神神社。三つめが個人的に信仰する崇敬神社。
多くの神棚に3枚のお札があるのも、そのためらしく、神棚の前に4つの紙垂を垂らすのも三柱の神様の通路を隔ているのだとか。

はて?ウチの神棚には三枚のお札はない。
沖縄の神さまを祀っているのだが、住んでいる土地の神さまではない。個人的に信仰しているわけでなく、沖縄のある地域の氏神さまだ。

人の決めた分類など関係ないのかなと思ってしまう、理屈でなく神棚に手を合わせてしまう。氏が素性と言うなら、僕らも沖縄の氏子なんだろう。
はて?神社の宮司さんちの神棚にお札は三枚あるんだろうか?

地車は曳くものか?見るものか?

岸和田で有名な地車ですが、今年はほとんどの地域の地車がコロナの影響で曳行が中止になったと聞きます。歴史を知ろうと、岸和田市のHPを見ますと、秋の五穀豊穣を祝う祭礼として、江戸時代に藩主が伏見稲荷神社を勧請した際に狂言などの芸事を行なったのが始まり。それから40年ほど経った頃に、小さな壇尻–このような表記も見られます–の上に、今で言うジオラマのようなものを乗せて曳き始めたのが徐々に大きくなり勇壮になり現在の形になったと伝えられます。ですから神事としては比較的新しいかもしれませんが、祭礼としては300年を誇る伝統行事と言えるでしょう。やりまわしという言葉が有名になるほど、地車と言えば泉州を思い浮かべますが、各地で古くから曳かれています。昔住んでいた生野区にも大きな地車がありました。

曳き方や装飾、掛け声にも各地で異なるようですが、同じくするのは宮入りです。時代とともに移り変わる祭礼の姿ですが、宮入りがフェスでない祭りを後世に伝えるのでしょう。

近年、若者の手によって活発に派手にする向きも見られるようですが、神霊を運ぶ神輿とは違い、人が乗る地車は衆生に見られ神に見られる事を目的としているようで、時代とともに派手になるのも問題ないのでしょう。
地車は、我と我の区分をなくし、我々の地域として一体となるのですよね?
曳いても、見ても、仲間と楽しむものなのでしょう。

ビルを背景に安里八幡宮

狭い道をたどり、ナビが到着を告げた。目の前の鳥居の向こうに見えるのは背の高い2つのビル。まるで御神体かと思うほどの威容を持って迫る。外壁には隣接の幼稚園を示す看板。境内からひと続きだから、園児は八幡様に守られ放題?

聳えるビルに幼稚園、都会の中の地元の神社として生活感が漂う。が、れっきとした琉球を代表する八社で、他の七社と違い熊野系ではなく八幡さんを祀る八幡宮だ。もちろん背後のツインビルは御神体ではない。

地元の識名宮

ようやくたどり着いた識名宮は、社務所はあったものの誰もいない。でも、僕らがお詣りをしていた小一時間の間に、参道を横切って境内を通り抜けたり。さっと本殿に手を合わせて立ち去ったりと、閑かながらも人気が絶えない境内。訪れた日に限った事かも知れないけれど、その地にあって、その地の氏神さんとして、その地域に愛されている、守られている、護ってもらえている神様のような気がしました。

地元に大切にされる神様を感じて、少し羨ましくお詣りをすませました。

暮らしの中の沖宮

那覇市で暮らす学生なら一度は訪れるという奥武山公園に生活の一部のようにある沖宮。熊野権現も祀られているけれど天照大神が主神のようです。戦火にも見舞われ何度か遷宮を繰り返し、現在の場所に鎮座してから50年以上も経ちますが神社にしては新しく感じます。

立地のせいかも知れませんが、暮らしの中の神社って感覚になりました。お宮参りだ、七五三だ、初詣だ、地鎮祭だなんて、いつも来る公園の中に存在を示すものだから、お詣りだってなった時に最初に思いつきそうです。

ちなみに「おうのやま」「おきのぐう」と読みます。長く間違ってました、スミマセン。