怒る事に回すエネルギーが勿体無い

昨年、「ありがとうの神様」の話を聞いて、「引き寄せの法則」の本を読んで、「小さな宇宙人」を考えて「素晴らしいマントラ」を分かろうとした。

そしたら

「ごめんなさい」を言わせる行動よりも
「ありがとう」と言ってもらえる行動の方が楽なことに気がついた。

謝れと言われるから腹が立つの応酬は終わりがない
終わったように見えても胸にササクレが残ったりする

色んな話を丸呑みできるほど素直にできていないけど、お経や聖書も案外異口同音なのかも知れないと思う。

そうなると

怒る事に回すエネルギーが勿体無い

のは、わかっているのに
嫌味を言ったり、頼んでばかりだったりする。

理論と実践を一致させるのは難しい。

玉城の境界の門

たまたま立ち寄ったせいで、痛恨の思いに駆られたのが玉城城跡

木製の階段が通行止めになっており、本来の石積みの階段を登る

階段を新設するだけあって、雨の日には登れないような石段を足元に

注意しながら上がっていく

琉球石灰岩をくり抜いた城門が見える

石段から見上げると城門の向こうには青い空が広がる

手すりも何もない石段を

なぜだか怖さも感じずに登っている

城門という境界をくぐると、そこには祈りの場

城内は思いの外狭くて、小さな拝所以外には目立った史跡もない

僕には、霊能力の類はないから神様の姿は見えないけど

ここを訪れて良かったのは、わかった

斎場御嶽のように多くの観光客が踏み荒らす訳ではないから

ひっそりと残る気配に頭を垂れた

痛恨の理由は、後で琉球開闢七御嶽の一つだと分かったから

あの拝所は御嶽のそれだったのか

キチンと礼を尽くせなかったことが残念

岩戸神社は知っていた

同じように沖縄好きで神社好きの友人A子さんから、
「市杵島比賣神を祀る神社を探していたら、凄い雰囲気の神社があったから、行ってきてん」なんて、情報と写真を見ると、確かに厳かな雰囲気を湛えた神社。

でも、なんで市杵島比賣神?

 この前、厳島神社に行ったから

ああ、そう・・なんて、同意の言葉ほど関心が無かったのに、写真を見て惹かれた

話を聞いてから、2時間後、僕らは岩戸神社の境内にいた。
ほぼ同じ場所に高御座神社もあります。
市杵島比賣大神をご祭神と仰ぎながら、境内には”弁財天”幟がはためきます。天照大神を祀る御社の傍には不動明王や白龍、黒龍などなど、近くには弘法大師の修行場?など。
神仏集合を肌で感じることのできる神社です。

平日の昼間と言う事もあって、山岳修行の色濃い神社の境内は静謐な空間が広がり、禁足地の近くまで登ると怖いほどでした。

初めて、岩戸神社に来ましたがと、思って来ましたが、違ってました。

社務所にお爺さんがいらっしゃったので、遠い記憶は確信に変わりました。
40余年前に高校の合宿で泊まり込んだ神社でした。
「あの神社は幻・・・」なんて、思っていただけに感激しました。
どうりで、写真に惹かれたわけですが、縁のあった神社だったのでしょうね。

僕なりの御嶽考

昨日、セーナナー御嶽に勝手に備え付けられていた鏡が取り外されているって、話をしましたが、そもそも「御嶽」ってなんぞや?を、改めて考えてみました。

もちろん、ウキや他のページでも容易に調べる事のできる事ですけれど、あくまで、僕なりの考察による御嶽考だと捉えてください。

端的に言えば聖域ですから、この場所というより、このエリアと言った方がしっくり来ます。ただ、森全体とか山全体というエリアも御嶽と呼ばれる事がありますが、その広いエリアの中心部には神様をお祀りするための祭祀の場が存在します。

その場にはイビなどと呼ばれる神の降臨する石が置かれていますが、必ずしも自然の岩や石と限らず、神様を守り続ける人々が時代に合わせて作ったものもあります。同様に、神の休憩場所と言われる神アサギもコンクリートで作られたものも存在します。

この永年紡がれていた祭祀の場が御嶽と考えています。聖域というより聖地と言った方がわかりやすいのかも知れません。

似たものに拝所がありますが、これは、地域を指すのではなく、施設を指すように思います。ですから、規模としては小さく、一族だけが拝む箇所であったり、一門の拝む箇所であったり、集落、地域、国の拝む箇所も全て拝所と呼ばれるのではないかと思います。

あくまで、僕の今時点での考察ですから、興味のある方も参考程度に捉えてください。

仙人になるのか?

琉球八社について調べてから、様子がおかしい。
後祭神様を追って、熊野三社権現と周辺の神社に行く
神仏習合を知りご本尊を感じながらお寺に参る

思考が現実を引き寄せると考えている人と知り合った
エイブラハムやバシャールの言葉を信じる知人ができた
般若心経の意味が面白いと思った
沖縄のノロが出るYouTubeで光明真言を知った

本地垂迹説の本地を神とする場合もあることを知った
小さな宇宙人アミの世界を知った
小林正観のありがとうの世界も知った

後祭神やご本尊を意識するお詣りに価値観を見つけた
霊能者が亡くなったご主人にあの世の事を聞く漫画を見た
大日如来や宇宙の真理や高次の神様が混じり合った

案外、異口同音だなと納得した。

早く法律の勉強をやり直さなくてはならないのに
別の知識にばかり惹き寄せられる

このままだと、仙人か宗教家になりそうだ

9月1日は!

数年前に島根県の比婆山に行った時のこと

残暑と言えないほどの厳しい暑さの日に、イザナミノミコトの御陵にお参りしたくて、比婆山久米神社に向かっところ、農村風景の中にポツンとお店を発見。
久米神社は里宮と奥宮があって奥宮に行くには比婆山に登らなくてはならないようで、その登山道も複数経路あるらしく、車のナビが上手く活用できなかったので、地元情報を得るには最適のタイミングだった。

降り注ぐ日差しは強く、麓の里宮までは歩いていける距離だったので、軽い休憩も兼ねて店に入ると、温和な顔つきで少し日に焼けた女性が出てきた。店内はワークショップのような雰囲気の机があり、単なる休憩所でも無いようだったけど、その日は女性一人だった。

イザナミの御陵のお話を聞くと、用意した簡単なマップを指差しながら奥宮のある頂上へのルートを説明してくる。残念だけど暑さが厳しくて里宮からお参りしたいと伝えたのだが、女性の説明は続き、里宮から登るルートが安全で登りやすいなどと、近くによると案外大柄な女性は愛らしい笑顔で奥宮行きを勧めてくれる。

「あっ、今日は9月1日だからお越しになったんですね。イザナミ様も喜ばれます」

実は意味がわからない。9月1日になんの意味があるのか?
(いまだにネットで調べてもわからない)

「奥宮まで1時間かからないって」
礼を言って、パンフもらって里宮へ進む頃には、妻の意思は固まっていた。

後日談
・お店の営業は土日だけなので、僕らの行った木曜日は通常は閉めている。
・翌年も訪ねてみたけど、店は閉店していた。
・笑顔の彼女は移住してきた人で9月1日の真相をもう聞けない。

あ!今日は8月31日だった。